王子と平民の二人
【小次健】
「辛い。俺の嫁が可愛過ぎて辛い」
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恋人、というか向こうはすっかり嫁気取りなのだが、健はバリバリの未成年だ。
家は金持ち。有名進学校に通う秀才。
だけど少しばかりアホの子である。
「健、これはなんだ?」
すき焼き鍋の中から黒っぽいグネグネしたものを俺は取り出した。
それが何かは直ぐに分かったが、訊かずにはいられなかった。
「春菊」
そうだ。これは春菊だ。全然緑色してねーけど。
「いつ鍋に入れた?」
「一番最初」
だろうな。この色。
「じゃあ、これは?」
「しらたき」
「やたら長いんだが」
「アク抜き不要って書いてあったからそのまま入れた」
切れよ。少しは。
不要なのはアク抜きだ。
切るのが面倒なら結びしらたきにしろ。
「この豆腐だけど」
「絹ごしにした。滑らかな方がいいかなぁと思って」
あのなぁ。すき焼きには焼き豆腐だろうが。
滑らか絹ごし豆腐を持ち上げようとしたら崩れてボトッと落ちた。
「すき焼きには焼き豆腐だ」
「えっ?そうだった?」
「食ったことがあるだろうが。松坂牛とか神戸牛とか最高ランクの肉が入ったすき焼きを」
「オージービーフにしたよ。節約しなくちゃ」
しまった。焼き豆腐……。ま、いーや。
炬燵の側には俺が買った一週間8000円レシピ本が置かれていた。
食い盛り育ち盛りの男二人暮らし。
ただの一度だって一週間の食費が八千円で収まった事など無いし、はっきり言って節約本ではない。ただの料理本だ。
だけど、この本は健にとって教科書みたいなものらしく、いつも手の届くところに置いてある。
そこにあるモヤシふんだん料理なんかの写真を見ながら裕福な家に生まれ育った王子みたいなヤツが俺のケチなプライドに付き合って「節約しなくちゃ」なんてことを言う。
時々、俺は思うのだ。
今は熱に浮かされているようだがこれでいいのかと。
こいつに無理をさせてやしないかと。
「無理して料理をしなくていいんだぞ。レシピ本を見るのも面倒なんだろ?」
俺が言うと、健は鍋の中の絹ごし豆腐と格闘しながら「んー」と唸った。
「違うよ。なんて言ったらいいのかな。写真を見るだけで出来ると思ってしまう。テストと同じと言うか見るだけで答えが分かる」
「そうなのか?すげえな、おまえ」
そうなのだ。
こいつはT大進学率がめちゃくちゃ高い高校で上位10番には入る頭脳を持っている秀才くんなのだ。
「日向さん、はい、お肉。松坂牛だと思って食べて」
ちょっとアホっぽいところもあるが。
「言わなくていい。悲しくなるだろーが」
「あ、ビールもどうぞ」
しかも話の向きをあちこち変えるヤツだが。
「どうもな……あ、おい、飲むなよ。未成年」
「少しだけ。みんな飲んでるみたいだし」
だよな。
俺だってこんくらいの頃はダチとばか騒ぎしたもんだ。
貧乏だったからバイトばかりしてたけど、バイト先の先輩に飯を奢って貰ったりもしたし、ゲーセン行ったりボウリングしたり、カラオケにも行っていた。
「おまえ、たまには友達とカラオケしたり、ゲーセン行ったりもしろよ。少しは高校生らしい遊びも」
たぶんこの一言が悪かったんだと思う。
「なんで?」と言って健は眉間にシワを寄せた。
そのあとガーーッとビールを一気に流し込んだ。
「日向さんの指図はうけませんっ」
「え?」
健はドンっとビールの缶を置き、俺をにらみつけた。
そのあと両手を床についてワニ歩きをするように俺の側にやってきた。
俺を見上げる顔は大して赤くはなかったが、なんとなーく目がやばかった。
「おれはひゅーがさんのさしずはうけませんっ」
もしかして……こいつ酔ってる?
一杯飲んだだけだぞ。
しかも飲んで五分も経ってねえぞ。
健はまた俺をギッと睨みつけたがその目は直ぐに力を失った。
ふにゃあと猫みたいに擦り寄って来て顔を近づけてきた。
「ひゅーがさんは、おれがきらいですか?」
なんでそうなるよ。つか、おまえエロいぞ。
「そんなことは言っ……」
「きらいですか?」
最後まで言わせろよ。
「おれはひゅーがさんがすきですー。ひゅーがさんがだいすきなんですー。どうしようもないくらい好きで好きで。ひゅーがさんはおれが嫌いですか?」
勘弁してくれよ。
これだからガキの相手は疲れるんだ。
俺は、嫌いだなんて一言も言ってねえじゃねえか。
言いにくいことを平気で言わせようとする。
想いを真っ直ぐぶつけてきて心を揺さぶる。
大人になって覚えた隠すと言うことを意味のないものにしようとする。
「わかってるよ、健」
「それだけじゃいやだー」
「好きだ」
「もっとー」
「健、俺はおまえが好きだ」
「もっと言ってー。『おまえが作ったすき焼きが食べたかった』って言ってください。『頑張ったな』って。『美味しい』って言わなくていいから」
すき焼きかよ……。
ほんと、しょーがねーヤツだなぁ。
いつになったらおまえのアホの子は治るんだ?
「健が作ったすき焼きが食べたかった。頑張ったな。これでいいか?」
健は「へへ」と笑って元の場所に戻り、鍋の中から黒い春菊を引っ張り出した。
「春菊を最初に入れちゃダメだったのか……」
「気にするな。春菊に変わりはない」
「日向さん、優しい」
「んなこたぁねーよ。残したら勿体ないだろ?」
何がそんなに嬉しいのか、それとも酒のせいなのか、健は黒春菊と俺を交互に見てフフと笑った。
「たくさん食べてくださいね。……それで、食べ終ったら……その……」
「わ、わかった。わかったから黙って食え」
俺の恋人は、頭が良くて、見た目も良くて。
俺のことを好き過ぎて訳わかんなくなっているようなところがあって、
健気で、一生懸命で、
ほんの少し触れただけで赤くなるヤツで
感じやすくて……
やべえ。可愛くてたまらないんだが。
END