『蛍』(夏の小次健ふりかえり6)
尊には、「夏休みには蛍を見に連れて行ってやる」と。
直子には、「パンダを観に動物園に連れて行く」と。
末の弟の勝には、「仮面ライダーの変身ベルトを買ってやる」
親父が約束を果たせたのはボールだけだった。
高校二年の夏、若島津と蛍を見に行った。
なんの話からそうなったのかはっきりとは覚えちゃいないが、空手の修行場がある山の麓に蛍の生息地があるらしい。
「蛍を見たことがない」と言った俺にあいつは「え?」と驚いた顔をして、それがちょっとばかり面白くなくて「なんだよ」と不貞腐れたら「ごめん」の後に言ったんだ。
「蛍、見に行く?」と。
正確には、蛍を見た事がないのではなく、覚えていなかった。
おふくろが言うには幼稚園に上がる前に行ったらしいし、アルバムにはその時の写真も残ってはいる。
けれども、そこには親父に肩車をされている自分とおふくろに手を引かれている自分。
カメラに向かってピースをしている自分がいるだけで、何処に何をしに行ったのか、それすらわからないような写真だった。
「尊も一緒でもいいか?」
「尊くん?」
「ああ、親父がさ、図鑑を見ていた尊に『蛍を見に連れて行ってやる』って言ったんだ。……けど、死んじまったから」
「…………」
「そのあとも蛍を見に行く機会なんか無くてよ」
暫く時間を置いて、若島津は「じゃあ、みんなで行こうか?」と言った。
「みんなって?」
「直子ちゃんと勝くん。日向さんのお母さんも都合がよければ」
「おまえんちは? 妹とか」
「うちはいいよ。山は虫がいるから嫌なんだって」
「電車か?」
「電車とバス。ダメって言われるかな」
「おふくろに訊いてみる。おふくろが行けるかわかんねぇし、尊一人ならおまえと俺だけで大丈夫な気もするんだけどな」
「じゃあ、俺も作戦を立てないと」
「作戦?」
「色々とさ、面倒くさいんだよ。特に父さんを誤魔化すのがね」とあいつは笑った。
結局、おふくろはパートが休めなくて行けなくなったし、直子と勝は近所の人に動物園に誘われていたらしく、そっちを選んだ。
尊もギリギリまで悩んで動物園に行った。
「結局、二人だけになったねぇ」
残念そうにあいつは言ったし、尊にしてみれば蛍も捨て難かったろうが、正直嬉しかった。
電車とバスを乗り継ぎ、山道を歩く。
麓の小さな店で買ったガムを噛みながらあいつの後ろを歩く。
「今日中に帰れるのか?」
「どうかなぁ」
「どうかなぁって」
「布団はあるよ。カビ臭かったらゴメン」
「いや、布団よりも……いいのか?」
「何が?」
「だから……」
へーき、へーきと若島津は笑って「あと少しだからガンバ」と俺の背中を押した。
目的の場所に着き、日が暮れるのを待った。
隣にある横顔が少しずつ色を変えていく。
肌色が夕陽に赤く染まりだんだん輪郭がぼやけてきて、何か照らすものが無いと見えないな、と思ったあたりで肩を叩かれた。
「日向さん、あそこ。蛍、見える?」
「どこだ?」
「あそこ」
俺の両肩を若島津は掴んだ。
「ほら、あそこ。……ほら」
若島津が「ほら」と言う度、縮まる距離に胸が苦しくなった。
「ちゃんと探して。直ぐに見えなくなるから」
「おお。……あ」
「見えた?」
ふわぁふわぁと漂うような光は綺麗だったけど、夏の終わりの線香花火みたいに少しもの悲しかった。
虫の寿命は短い。
たぶん、あの蛍には二度と会えない。
「綺麗だけど、儚いもんだな。……蛍、直ぐに死んじまうし。あの蛍は……」
「え?」
「生まれ変わるよ。何度でも。でね、それが人だったら大切な人の側に行くと思うんだ……たぶんね」
照れ臭そうに言ったあいつの手を握った。
「じゃあ、俺は……」
「日向さん、……俺も、だよ」
その晩、夢を見た。
夢の中で俺はあいつの肌の匂いを嗅ぎ、心臓が血液を全身に送り出す音を聴いていた。
頭の上から聞こえる声は、布団に入る前に聴いた声より少し大人の声だった。
『おやすみ。日向さん、今日見た蛍はあの日見た蛍の生まれ変わりだったのかもしれないね』
たぶん、それは約束された未来――。
END
リクエストSS
ワードパレット【14.凍った木】 おやすみ/蛍/二度と会えない